沿革
最終更新日:2022/08/31 公開日:2017/10/18
- 1998年頃
- 世の中が独立だ起業だと浮かれ出す前夜、田中は大学卒業後就職した会社を辞めて転職、のはずがなぜか間違って起業してしまう。農学部→水産食品会社→ITで起業、というリアル畑違いな人生を送る事に。起業してから営業経験が全くなかった事に気付くが(当時30歳)アフターカー二バルなのは言うまでも無い。
会社設立後、10年経った企業の生存率が10%だという事を、10年経ってから知る(中小企業白書より)。読んだら起業してなかったかも?無知って大事ですね。
カネがないので当然自営業として一人でスタート。当時ネットを通じて知り合った人達に助けられながら、かろうじて生きながらえる。周囲から「起業してすごいですよね~」と言われると、「(今のところ)零細自営ですけど、何か」と言う。
- 1999年頃
- ITバブルが来るか、世間の喧噪とはあまり関係なく、地味に仕事を継続。しかしつきあっている同業の知人達はYahoo!に買収されたり、VCに出資されたり、就職経験の無い学生のビジネスプランに億集まったり、アゲアゲだった。
たまにうちにも間違ったVCから話が来るが、うち今まだそんなタマじゃないから、と全て断る(後で猛烈に後悔した)。この当時は独立してWebデザイナだ、システム屋だ、プランナーだ、とやりだす人がとにかく多かった。端から見ていて将来どうするんだろう、と思っていたが、人の心配をしている場合じゃないのは言うまでもない。
- 2000年春頃
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実力はあると勝手に思っていたが、客観的な評価軸が無いので、どうしたら顧客から信頼を得られるか思案をする。そんな時、ふと日経新聞の広告に、経営コンサルタントの大前研一氏が「第一回ビジネスジャパンオープン」というビジネスプランコンテストを開催するので参加者募集、という広告に目がとまる。友人と数名でプランを作成する事になったが、田中は最後まで「それより受託できちんとカネ稼ごうよ」と参加をしぶっていた。しかし賞金が出ると聞いてあっさり参加する事に。
400社中ベスト11に入り、ファイナリストとして東京でプレゼンテーションをする。みんなスーツだったが一人だけ白いセーターで浮いたのは言うまでもない。業界の有名人が審査員で(白い犬が出てるCMの会社のCEOとか)大勢のマスコミも集まり、緊張のあまり大失敗をする。結果的には大賞を逃してしまい、賞金がもらえず、東京行きの旅費が自腹になり落ち込む。
しかし、取引先からは「やっぱり違うと思ってたよ。大したもんだね」と株がちょっと上がる。若干営業がしやすくなる。
- 2000年夏頃
- 300万(無理矢理)たまったので、どうにか法人化する。外注時代からの女性デザイナを社員1号として採用。システム担当の取締役(現浅川CTO)も就任したが、役員報酬は完全歩合制という(名前のほぼ無給)好待遇なので、あまりかまってくれない。売上も仕事もあまり無い割りには、とにかく忙しく、正月も休めなかった。どんな小さな仕事も歓喜の涙を流して引き受ける。
- 2001年頃
- ITバブルが崩壊するが、相変わらずあまり関係なく、地味に仕事を継続。少しづつ大きな仕事も出来るようになるが、当然クライアントにみっちりしぼられる事もたまに出てくる。が、雨降って地固まる的な展開でどうにか引き続きお取引頂く。取引先が少しづつ増える。
東京の某ITベンチャー企業の社外取締役に就任する。この頃から当初目標としていた東京の仕事をいっぱいやりたいね、という事の端緒をつかむ。しかし、何回行っても水道橋で下りるつもりが、間違って飯田橋で下りてしまう。東京は大きな街ばい。
- 2006年夏頃
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それまでかたくなにSOHOで仕事をしていたが、事業拡大と体制強化のため、やむなく(?)オフィスを設ける事にする。散々あちこち見たあげく、よくあるパターンで結局一番最初に見たオフィスに決める。
場所は札幌市の中心部、大通公園に面したビルにR&Dセンターを開設。小さいながらもオシャレな立地でそれなりの家賃がかかるが、これで優秀なスタッフがダマされて、いや、集まればと家賃の高さに号泣しながら契約書に捺印する。
社内で田中が「これから採用するスタッフはSOHO、つまり皆さんの様な「ヘンタイ」ではなく、普通のオフィス勤務者、つまり「カタギ」を採っていくぞ!」と宣言すると、スタッフから「そもそもお前が一番ヘンタイやんけ、一緒にすんな。俺たち元々前職カタギだ」とつっこまれていた。
- 2008年頃
- 社員も増え、元気でやってます(はしょりすぎましたか・・そのうちにでも・・・)
- 2009年8月
- 有限会社から株式会社に組織変更し、本社も札幌市東区から札幌市中央区に。
- 2019年1月
- とっても元気です。
- 2021年6月
- オリンピックあります?